「現実」主義の陥穽
2013-09-24


・・・講和論議の際も今度の再軍備問題の時も平和問題談話会のような考え方に対していちばん頻繁に向けられる非難は、「現実的でない」という言葉です。私はどうしてもこの際、私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもっているかということをよくつきとめて置く必要があると思うのです。私の考えではそこにはほぼ三つの特徴が指摘できるのではないかと思います。
 第一には、現実の所与性ということです。
   現実とは、本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られて行くものなのですが、・・・この国では端的に既成事実と等値されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも「仕方のない」過去なのです。私はかってこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが、他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩していったのもまさにこうした現実感ではなかったでしょうか?・・・
 第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましょうか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤する場合には簡単に無視されて現実の一つの側面だけが強調されるのです。・・・「現実的たれ」というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしょうか。実はそういうとき、人はすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択しているのです。講和問題にしろ、再軍備問題にしろ、それは決して現実論と非現実論の争ではなく、実はそうした選択をめぐる争いに他なりません。・・・
 そう考えてくると自ずから我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当たらざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて「現実的」と考えられこれに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。・・・だからといって私達はそれを「現実」のすべてと勘違いすると何時の日か手ひどく現実自体によって復讐されるでしょう。民衆の間の動向は権力者の側ほど組織化されていず、また必ずしもマス・コミュニケーションの軌道にのりませんから、いつでも表面的にはそれほど派手に見えませんが、少し長い目でみれば、むしろ現実を動かしている最終の力がそこにあることは歴史の常識です。
 私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味して見ればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもったものであることが分かります。こうした現実観の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。そうしてあのアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民は自分で自分を制御出来ないままに死への舞踏を続けるほかなくなります。私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。

   (丸山眞男集 第五巻 1952年 「現実」主義の陥穽 より)
[丸山眞男]

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